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2006年10月 5日 (木)

私見 少女革命ウテナ

えーっと、後でまとめなおすとしてここでは私見で感想を箇条書きしておこうと思います。

「薔薇の花嫁」とは何か?

これの原形は「求められるままに答える女」なんでしょう。本質的なところをいうと、この原形は哺乳類における子どもに対する母親です。でも、このアニメ、母親の存在ってほどんどないんですよね。父親もほとんど出て来ないけど。子どもにとって、母親は唯一無二なもの、すべて自分の思いのままに動いてくれる(そうあって欲しい)存在です。でも母親はたいていの場合、父親を愛してもいるし、兄弟姉妹のものでもあり、1人の女でもあるので、自分だけの母でいてくれる期間は短い。

しょっぱなから、西園寺莢一が怒るのは、薔薇の花嫁のアンシーが自分の思い通りになってくれないから。他の男のことを考えていてなお、「求められるまま」になっているから。姫宮アンシーはよくひっぱたかれていますね。その他大勢の女の子にも樹璃にも。「求められるままに答える女」は、少女にとって腹立たしい存在でもあります。一見、”どんな男とも寝る女”に対しての潔癖な怒りのように見えるけど、その奥には子どもを差し置いて男(多くの場合は健全に父なんですが)の要求を先に叶える母への怒りが転化されていることもあります。この物語の前編は登場人物が皆子どもっぽく自分の欲望をかなえようとするのに、アンシーだけがものすごく大人(彼女は既に少女ではない)感じです。

「少女」とは何か?

ウテナに代表される無垢な潔癖さは、少女そのものです。彼女の怒りや決闘へ向かう動機は大人の女のものではない。まだ少年性と分化されていない思春期前期の感じさえします。彼女が「薔薇の花嫁」に対する違和感やアンシーに普通の少女らしさを取り戻そうとする正義感が、この作品を貫く最大の力でしょう。

中篇の黒薔薇編では「薔薇の花嫁」になる少女はもう女の領域に入り込んでいて、皆、大人の不純を抱えている。梢にしろ、詩織にしろ。また幹の父が電話で話している義母も薔薇の花嫁の格好になっているのが象徴的です。

「何」を革命しているのか?

アンシーを救いたいというのが、もちろんこの作品の主力テーマですが、アンシーは既に少女性を失ってしまった女です。兄によって失ったという解釈になってますが、私は個人的に暁生、アンシーの兄妹の両親像に興味があります。たいていの場合、兄妹相姦を防ぐのは母親の役割でここにも母親不在を感じます。そして暁生、アンシーの父は、暁生以上の暴力的行為をアンシーにしていたのでは?暁生が最初にアンシーを犯したのなら、彼は彼女を自分のものにしておくことができるはずです。(たとえ世間に何と言われても、アンシーを愛し彼女に愛されている限り、彼は少年性を失わないはず。)

でも暁生は王子様としてアンシーを救おうとしている。そして救えない。すごくうがった見方でファンに怒られそうですが、以下妄想をお許しください。暁生とアンシーの母は暁生の父と結ばれた後、なんらかの事件があって、別の男性と関係を持ちアンシーを生み亡くなっている。暁生の父はアンシーとは血縁関係がなく、なおかつその母の面影をアンシーに見て、彼女のかなり幼い時代に性的行為を行った。それが故に幼くしてアンシーは百万本の剣に刺されている。暁生は妹をなんとか救いたい。でも、この場合、同じ性的リピドーを持つ男性では剣が刺さるばかり。暁生は彼女の王子になろうとしても、父親と同じ行為をしてしまう自分を呪い、絶望する。

私が感心して気に入っているセリフは、後半最後の方の予告で、アンシーが「ウテナさま、ご存じでしたか?私がずっと、あなたを軽蔑してたってことを。」とかいう部分。うーん、すごいな。小公女セーラの「私はいつもそのつもりでした」くらい女としてすごいセリフ。そうでしょう、アンシーはもう自分に決して清らかで潔癖だった少女の時代が戻らないことを知っている。けど、ウテナは子どもっぽくて、アンシーを普通の少女にするために純粋に一生懸命。「あなたは何も知らないのね。」ってずっと思っていたんでしょう。

あと、好きなのは毒入りクッキーの話をアンシーがするところ。でも、ここではウテナも自分が入れた紅茶も毒入りなんだと返しています。そして二人でにっこり紅茶とクッキーを食べるシーン。をを、ウテナやるじゃん。成長しているじゃん!。これぞ女の会話!。女性の決闘ですよ~。剣を持って戦うのは男の決闘の真似であって、そんなことをしても女性の問題は解決しません。ここでウテナが女として成長したのは、恋を知ったからでしょうね。そしてひそかにアンシーを裏切っていることを自覚している。罪の意識を知って女へと成長していくウテナ。

そして、身投げするアンシーを助けるウテナ。ここで初めて二人の関係が逆転します。アンシーはウテナの少女性をひそかに守っている母的存在だったのですが、同じく母的存在をして守っている兄、暁生を裏切れなくて、死を選ぼうとする。そこでウテナが生へ最大限の力を使って、引っ張り戻しているのです。かつて、棺の中で死を選ぼうとしていた少女が、永遠に無数の剣に刺されている魔女にされてしまった少女を見て、生を選ぶ。ここでは反対に死のうとしているアンシーをウテナが生へ引っ張りあげています。

「女の子は王子になれない。けど彼女は世界を革命した。」

ウテナもまた暁生によって「薔薇の花嫁」にされ、アンシーの裏切りによって倒れます。確かに彼女は王子にはなれなかった。女の子だから。しかし、彼女は無数の剣に刺されているアンシーを開放することに成功します。アンシーの絶対無比の王子様だったディオス(かっての暁生)でもできなかった開放です。

これは「ウテナの新たに獲得された母性によって、アンシーが生み直された」と私は考えています。王子という男性が救えるのは無垢で清純なお姫様のみ。汚れてしまったお姫様は王子では救えない。

これを浄化し、開放できたのは、ウテナが新たな生命を生み出すことのできる女性だったからはないでしょうか。ウテナは女であったがゆえに、アンシーを救うことができた。清純な彼女を再び生み出すことができた。それこそが少女革命だった。っと私は考えています。

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2006年10月 3日 (火)

少女革命ウテナ(その2 特撮演出)

さて、続きです

ウテナは不思議な作品です。これって、宝塚ファンの男性が作った少女アニメですよね?

というか少女漫画としては一見すごく新鮮に見えるのですが、この演出は本来、特撮の手法じゃないでしょうか。それもスーパー戦隊ものとか宇宙刑事ものとかの・・。挿入歌とかすごくカッコいいけど決闘の舞台効果とか決闘での音楽の流れ方とか、幕間の影絵少女の暗示的ギャクの入り方とか、特撮そのものだと思う。好きだけど。セーラームーンも途中から少女戦隊ものになっていたのでその影響もあるのかなぁ。

挑発→悪事→決闘→勝者→謎(幕間)→乞うご期待 という典型パターンですよ。私は「光戦隊マスクマン」を思い出しました。

*「光戦隊マスクマン」:谷隼人さんが長官をやっていた戦隊もの。悪の地底帝国のお姫様と主人公が恋に落ち、イアル姫は赤いバラと一緒に氷詰めにされている。王女の双子のイガム王子が主人公と戦うが、実は王子は男装した少女(イアル姫と二役)であった。愛する恋人とそっくりの敵と戦わないとならない主人公の相克が素晴らしい。地底帝国の挿入歌もよかった。ファンだったのだが、ラストがあまりにもマヌケで・・・・・。当時一晩で16ページのマンガでラストを勝手に書き直してコミケで売った。20冊くらい売れた。ま、その程度ファンがいた女性にも人気のあった特撮です。号外~:ここ10年くらい特撮見てません。だから新しい話題をフっちゃや~よ。日曜朝枠になってから全く見てないさー。休日の朝なんか起きれるかーぃ。(影絵少女風に)

実は最初、姫宮アンシーが私にとって近親憎悪的対象になるんじゃないかと心配してたのです。でんでん虫やマングースを可愛がってる変わり者でいじめられっ子なのにいじめに対して疎く、我が道を行って平気。薔薇の花嫁って聞こえはいいけど、要は勝者の賞品、マグダラのマリアってことでしょ?しかし、見初めてからは演出のスピード感と劇場効果の荒唐無稽さで気にならなくなった。むしろアンシーとても気に入った。

ところで最初に西園寺に薔薇の花嫁としてアンシーを渡したのは誰?暁生ですか?そうすると暁生は決闘で西園寺にわざと負けてアンシーをくれてやったのか?ひでぇ男だ。

西園寺くん、DV男でギャクだけど純粋な愛に生きる男だよねぇ。案外、アンシーとは似たもの同志では?両方ともマゾで変人だよ?人前で殴った分だけ二人だけになると膝まづいて涙をこぼして許しを請うていそうだ。日本人の典型的共依存DV夫婦のよーだ・・。

アンシーは兄に売られた妹なのか?この物語には兄と妹が3組も出てきます。親の影がほとんどないのも特徴。一見、王子様とお姫様のシステムが繰り返し登場するので、その革命に捉われがちだけど、男性側の方から見ると平安時代の貴族に見られるような極めて日本的な妹背の関係システムの破壊じゃないでしょうか。「兄の野望と欲望の犠牲になる妹」の構図が気になります。

ウテナはこの物語の完全な異分子。王子様という役柄を効果的に演出してますねぇ。でも彼女は男になろうとしているわけじゃないんだよね~。あの学ランに短パンも男装と言えるのか?そこがやっぱり男性が作ったキャラクターだなぁと思う。女の子としてもとても可愛い不思議なキャラクター。作った人があざといのか、生徒会長 桐生冬芽、あざといよね。うーん、それでもウテナを女装させることに成功する彼はなかなか男として私は良いと思うぞー。冬芽と西園寺は男としての野望に満ちていて健全なんだけど、暁生はラストの方の車暴走編からがヤダなぁ~。というかこんな不良理事長のいる学園イヤだぞ~。暁生、冬芽、西園寺の脱ぎ魔なところは何なの?これは女性サービスのつもりなんでしょーか?(なんかまちがってる)

七実ちゃん(いきなりちゃんづけかい)は、最も従来の少女漫画的意地悪キャラですね。しかし、演出がすごい。カウベルの回のラストは少女漫画だとああいう演出にはしないよ。卵の回もいい。しかし、猫も捨てるは卵も捨てるは、全くもって母性の片鱗もない責任放棄残酷少女そのもので良いなあ。それなのにギャク可愛いキャラにできるところがすごいです。彼女は世界を革命する必要全く無し。同じ妹でもアンシーとある意味、対極にある存在?

幹、梢の双子兄妹はとてもよかっただけにもう一ひねり欲しかったです。梢ちゃんは才能なんかなくとも光さす庭で笑っているだけで、お兄さんのお姫様でいられたはずなのにそれをあえて捨てていくんですね。「風と木の詩」のように、本来少女漫画だったら兄役が妹役の清さを守って汚れていきそうなものなんですが、梢はあえて自分の方が汚れ役になっている。この辺の逆転も面白かった。できれば、光さす庭アレンジでは、せっかくの双子設定を生かして「とりかへばや物語」して欲しかったな。兄の清らかさを守っているのは妹の方なのだから、薔薇の花嫁役をやっていたのは実は幹くんの方だったみたいな。

樹璃さんと彼女を巡る三角関係・・・うーーーん、彼女は真性・・だよね。唯一女装しない人。瑠果と詩織。ここはこれだけでもう完結していて、もう一物語作れるんじゃないでしょか。ちょっと今回パス。魅力的だけど。

黒薔薇編はちょっと退屈だった。そもそも少女の決闘の意味がない。女性が最も成れない職業が兵隊さんなんです。決闘の結果得られるものがないんです。少年漫画の場合、もう戦っていりゃあOK、永遠に続く戦いこそカタルシス。パトスの放出、リピドー万歳ってなものですが。少女の戦いには理由が必要でかつ戦い続けるのは難しいのです。女性の場合、子どものような弱い無力の存在を守る時のみ戦いの理由が明確に存在します。

でもって、黒薔薇編は決闘相手が皆、嫉妬とか劣等感が理由になっているんだもの。この種の動機ではアンシーを守ろうとするウテナに勝てないですよ。演出はそれなりに面白かったけどね。あと、「あなたの進む道は用意してあります。」で終わる人と「あなたは世界を革命するしかないでしょう。」の人と、「あなたの道はここにはない」の人がいるところが面白かった。ちゃんと革命の意味がわかってるんだね。

さて、ウテナが戦う理由ですが、これはもうアンシーのためですね。ウテナとアンシーは相互補完関係なんでしょうね。ウテナとアンシーの組み合わせがこの作品の鍵です。果たして何を革命したのか。薔薇の花嫁とは何を象徴しているのでしょうか。

もう一回くらい続く。このページも後で整理しないと・・。読みにくくてすみません。

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2006年10月 2日 (月)

少女革命ウテナ(その1 寄り道)

97年本放送当時は、とても忙しくて見れなかった少女革命ウテナ。ほんのちょっと飛び飛びで見ただけだったのでした。当時大学以来の親しいサークル仲間の友人がとてもハマッていて、「最後は本当に革命しちゃったのよ」と興奮してしゃべっていたので、ずっとずっと興味がありました。

「橋本カツヨ」の名で「時かけ」の細田守監督が絵コンテを切っていたことを知り、ますます見たく・・。時かけカラオケにも一緒に行ってくださったTさんが全部DVDを持っていると知り、お借りしてこの度、全39話を見ることができましたよ~。歓喜!!Tさん、ありがとう!!!

いや、想像していた以上に良かったです。さいとうちほさんの少女漫画本や特別編は読んでいたのであらかたのストーリーも知っていたんだけど、それ以上に演出や作画が工夫されており、音楽も良い!さっそく感想を・・というところなんですが、少し遠回りをお許しください。

えーっと、私はベルばらの現役世代ですから、この話が池田理代子先生の「おにいさまへ」や宝塚舞台の影響下にあることがよくわかります。さらに余談、ベルばら現役世代は1リーブル=1972年当時の円換算が即時にできます。0.01リーブル=週間マーガレット一冊くらい?

例:高校大学時代の学食で 「悪いが1リーブルほど貸してくれないか?」「おまえ、1リーブルも持っていないのか?」 で、「余分な金は持ち歩かないようにしている」とか、「何を言うか、1リーブルあればロザリーが一晩買えてしまうんだぞ」などと、掛け合い漫才をしながら200円くらいの定食やカップラーメンをすすってました。もちろん、美大の寮生活時代は夜な夜な「オスカルさま**喪失34歳の是非について」などの討論もやり尽くしておりました。

脱線すみません。

元に戻して。オスカルさまの中年期の苦悩については、先日このブログに書きましたが、自分も中年期をはるかに過ぎた現在、思うに女性の中年期の苦悩というのはたいへんウケが悪いテーマです。男にも女にも若いのにも年寄りにもウケが悪い!これだけ老若男女すべてにウケないテーマというのも珍しい。女の子も若い時はまあ苦しんで頑張って精一杯生きる・・・生意気でも・・・で、いいんだけどね。30台近くにもなれば、会社にいればお局様、家庭にいれば不機嫌な妻か神経質な母、支配的か鬱的かヒステリックな女かどっちにしろろくなことは言われません。あと、中年期の女性の権力も(子を守って戦う母は特例として)戦って支配する男性領域にはみ出すと無茶苦茶叩かれますね。男性だけでなく若い女性にも・・。

これはたぶん、中年期の女性というのは、どんな人間であっても哺乳類にとっては「母」の存在を彷彿させるからだと思うのです。母が悩んでいるというのは子どもにとってそれだけで捨てられるのではないかと不安です。母の苦悩、不機嫌は子どもにとってたいへんな恐怖、ストレスであるので、つい恐れてご機嫌をとってしまう。でもって、男性も若い女性も、それが本当の母でないことにすぐ気づいて、自分ももう大人であることにもすぐ気づいて、なんで赤の他人の中年期の女性のご機嫌を取らねばならんのだと自分で自分をあさましく疎ましく思う。捨てられる恐怖などない、むしろ捨ててやれる存在とすら思う。そのとばっちりを必要以上に当の苦悩する女性にぶつけられてしまうような気がします。中年期の女性は、母でも妻でも管理職でもアシスタントでも、にこやかに笑って、優しくないとダメなのよ~~。

それでね、彼の池田理代子先生も「オルフェウスの窓」を描いた後、私の大学時代に失踪なさって(失踪なさったのはその後の人生のために大変よかったと思っているのですが)その後、男装する女性像も男性的問題に苦悩する女性も描いてません。

当時の少女たちはかなり早い時点で気づいたのです。このテーマは女と男でやるには悲壮すぎる。名誉男性として権力を治めても虚しいし、女に戻って愛に殉死してしまっても救いがない。幸福に人生を最後まで過ごすことができそうにない。

だからその後、このテーマは少女漫画では同性同士でやることになりました。耽美とかやおいとか今で言うボーイズラブが流行ったのもたぶんその辺が最初の理由。男同士の方がこの関係がうまくいくことに気づいたといってもいいかもしれません。少女の男性的振る舞いより、少年を女性化しておいた方が、女性にとって客観的に性的問題をも描けるしね。パロディさえもパタリロをはじめとして主従を同性で行ってそれを時折変換していくだけで充分このテーマを描くことができる。宝塚では女同士でやることによって、恋愛における互いの対等性だけを純化することができる。同性で恋愛していれば、人生の中年期における男女間転換点(母性父性の役割)を迎えなくてすむからです。

さてさて、長らく遠回りしました。

少女革命ウテナは、久しく行われなかった少女の男装が出てきます。今回全39話見て、これは少女漫画ではないなあっとつくづく実感しました。制作スタッフの根幹に男性が・・非常に男性的なものがあります。いうなれば、袋小路に入ってしまった少女漫画への男性側からの逆襲です。

驚きました。こんな逆襲がいつのまにか行われていたんですねえ。しかも少女の革命へちゃんたどりついている。次はその内容に触れていきたいと思います。

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